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初めての始まり。

【後編】だれの認証も必要としないもの。中島隆誠が語る自己言及の秘める力「“忌まわしさ”はあるとき世界のトキメキになる」

現代アーティストの中島隆誠さん。コロナ禍の窮屈な高校生活の中で表現を始め、高校中退後に現代アートの登竜門「GEISAI」で受賞。今年春には待望の第2回個展を開催する。

後編では、「人は本来ひとっこひとりいない深い森の中でも存在できるように、アート作品やデジタルデータも、人に認められる必要はなくなっていく」と確信を持って語る彼の、自分と世界のこれからについて、話を聞いた。

INDEX

ストラクチャーとコンテクストへの探究心

中島さんが今、興味のあることや探求していることを教えてください。

具体的なことは色々ありますが、どれについても、そのひとつ一つの出来事が、どういうストラクチャー(構造)の中で起きたり沈んだりし、どのようなコンテクスト(文脈)につながっているのか?というようなことを、網目を解いて結び直すみたいな感じで、日々探求し、作品制作をしています。

現代アートという表現ジャンルには、大きく分けて、構造について言及するか、形式について言及するかの2パターンあると思います。たとえば、絵画であれば、赤ちゃんのお絵かきではなくて、なぜアートなのか?みたいなことを規定するためのルール、展示や取引で発生する権利の係争などについては構造の問題ですし、逆に光の描き方や筆致、キャンバスの変形については形式の問題です。そう考えると、僕は、構造について言及するタイプですね。たとえば、あるレストランで隣の席に座った二人の会話を聞いていくとして、僕だったら、その会話がどういう構造を下敷きに成り立っているのか、どういう文脈で二人はこのレストランに行き着いているか、みたいなことを気にするわけです。

ちなみにその二人の会話を仮設したとして、どういう流れを汲み取っていくのでしょうか。

たとえば、Aさんが「今日もたくさんトれたね」それに対してBさんが「最近めっちゃキてるからね」と話していたとします。でもそれだけだと構造と文脈がわからないのでなにを言っているかもわからない。でも、Aさんのカバンにお魚LOVEのキーホルダーがついていたとする。

あぁ、おそらく漁師さんたちの会話だ!と進めれば、先の会話がA「今日もたくさん魚が獲れたね」B「最近めっちゃ北上して来てるからね」となって、よく見たら、どっちも地球のロゴが刺繍されたTシャツを着ている。もしかしたら、この会話は、地球温暖化と漁業の地域性についての当事者の会話だったのかもしれません。みたいなふうに。

でも、A「今日もたくさん撮れたね」B「最近めっちゃ秋葉原に来てるからね」という会話だったとすれば、Aさんのキーホルダーはメイドさんとのツーショットで、このレストランもメイド喫茶になるはずです。

なにが言いたいかというと、僕たちは、日常生活の中でも、A「今日もたくさんトれたね」B「最近めっちゃキてるからね」という会話のように、肝心なところが伏字になっているブラックボックスに閉じられて、構造と文脈が支離滅裂なまま、さまざまな出来事に対処しているわけです。その状況は、昨今の情動政治やアルゴリズムの扇動みたいなことにもつながっていきますよね。民主的な意思決定には、構造と文脈が透明でオープンになっていなければなりません。僕にとって、現代アートとは、そういう社会の構造原理の中にいる人々に対して、外からどのようなシステムに従ってやりとりが行われているか、ということを問いかけ、テーマを想定してみたり、それらの対応関係を丁寧に照合したりして、コンテクストを導いていくように促す仕事でもあります。それによって、明快な会話を聞こうとすることができれば、僕たちの対話も可能になっていきます。今、僕は現代においてのさまざまなAーBの構造や文脈について探究し、発想の提案とリサーチとを頑張っています。それを今度はハイストラクチャー/ハイコンテクストな表現、作品としてまとめ、提出するわけで、それに対しての読み取りが、自分が想定しているものと全く見当違いになるかもしれませんし、時代が進行するにつれて暴かれていく会話の内容と見事に一致するかもしれない。それはいよいよ結実を待ってみないとわからないことでもあります。

前編でお話しいただいた高校時代のお話についても、あえて教室という構造やコンテクストに言及しようとしていたんですね。

そうですね。教室というやりとりの空間で、先生の課題に対して生徒が成績を出す、ということにあえてなぜ教室ではそういうやりとりが起きているの?と問うことですね。教室という空間にもそれなりの構造と文脈があって、公務員としての言葉と、学生としての言葉が、AーBでやりとりされている状況で、それぞれが食い違っていても、便宜を図る。今までずっと、コミュニケーションの構造に目をやっていたからこそ、現代アートにかかわらず、そういう構造への考え方によって、どうせなら、もっとより良い構造を提案したいと思うわけです。

自己言及の秘めた力を信じる。忌まわしさは世界のトキメキになる

作品を通して鑑賞者にどう感じてほしいとか、どういう影響を与えたいと考えていますか。

たとえば、「キャンバスに」絵を描くとか、「舞台で」芝居をするとか、もうすでに認識された空間の中で自分が鑑賞者になにかを伝えるみたいなやりとりでOKなのであれば、わざわざ現代アーティストになろうとはしない気がするんです。それこそ、美術家とか、役者とか、歌手とか、Youtuberとかになって、それぞれのジャンルの空間の中で伝えたいことを相手に届ける感じでイイと思います。でも、なぜわざわざ「現代アート」をやろうとするのかというと、どういう思いをさせたいみたいな、空間の中での自分と鑑賞者との関係の良し悪しよりも、どちらかというと、なんでキャンバスに描くの?なんで舞台で芝居するの?なんで教室で勉強するの?…みたいに、そもそも空間としての条件やまだ建設されていないような図面の段階でそれが建ったり潰れたりする可能性を追求したいと思うからなんです。舞台稽古中に突然役者がなんで舞台で演じるの?なんでなんで?と騒ぎ出したら、彼はすぐに劇団から追い出され、ゲリラのパーフォマンスアーティストになることでしょう。そういう人は、空間から排除される対象になります。

でも、僕たちの中にいるもうひとりの自分からそういうなんでコールが聞こえてきた瞬間はありませんか?

だれもが、自分の人生を歩む途中で、それまでの自分に対して自分で説明をつけ、どうにか折り合いをつけながら、道のりを経ていると思います。その忌まわしい問いかけが自分の方に向いたとき、自分が自分の関係者になる他ありません。AーBの到達ではなく、AーBが経路たりえる条件をもういちど、またいちど、と辿って探るような感覚です。今までの歴史に僕たちはなにを破棄したり、なにを受け入れたりしてきたのだろう?と掘り起こしていく作業です。あえて現代アートや表現と言っていますが、それは裏を返せば、僕たちがなにごともなくやっていること、孤独に対抗して生きるということ、そのものだと思います。

現代アートにおける自己言及は、どんな可能性があるのでしょうか。

「自己言及」は、今の人生の経路を行ったり来たり、なんども辿ることでそれを規定する遥かな歴史にも結びつき、ときに人々の認識革命を起こしたり、また、さまざまな「自己言及」のおかげで、次世代が生きていけるんだと思います。

たとえば、さっきの黒田征太郎さんを例に挙げると、空襲によって焼ける風景から新しい建物が乱立していく戦後へと移っていく歩みによって、どのように認識が変わったか?ということは、すべてそのまま黒田さんの眼に映り込んでいるはずで、そして、黒田さんはその眼というスクリーンに投影されたシーンをなんどもなんども再演し続けてきたんだと思います。

戦争の記憶をなんども再生する勇気と根性がありますか?それは自分の中に入り込んでしまった不気味で恐ろしいものかもしれませんが、それでもそれを忌避して安易な復興策みたいなものでイイ点を取るのではなく、それをえぐるようにして観察し、受け入れ続ける。彼は彼の中の激しい自己言及と闘って、僕たちは、そういう彼の生涯の反復の中になにかを感じます。黒田さんは、野坂昭如『戦争童話集』をアニメ化するプロジェクトで賞を受けたときのスピーチで、「この場にいれることがうれしくてかなしいです。うれしいのは伝わったことがうれしいです。かなしいのは戦争の記憶をずっと作り続けないといけないことがかなしいです」と言っていました。自己言及の可能性とは、つまりそういうことだと思います。自分と向き合うことは歴史と向き合うことへとつながります。

中島さんの場合、そのような歴史的な経験というのは、コロナ禍での学校生活になるのでしょうか。

きっかけとしてはそうですね。コロナ禍の数年間の話を僕の経験として、GEISAIでお話ししたとき、僕が黒田さんの話を聞くのと同じように、タカノ綾さんからみて、それを“世界の物語の場面転換”であると捉えていただき、僕たちのジェネレーションに映っている光景を面白がってくれたのだと思います。

でも、自分の人生について言及し、解釈し、葛藤しながらなんどもなんども向き合ってきたことを打ち出すのって、大抵の場合、遠ざけたいものでもあるから、それを堂々と人の前に出したら、取り除かれてしまうし、自分にとっても本来それは秘め隠したり、処理したりしたいものだと思います。でも、それにしっかり接触して、向き合ってきたということは、どこかできっと空間の中にも歓迎されるときがあると思うんです。実際に、GEISAIや文化祭のような祭典からパンデミックのような緊急事態まで、空間が非日常と化したとき、人々はそういうものにこそ感触してみたいと思う。「自己言及」が結晶となったアート作品は、そっぽを向いているようで、いつかどこかでだれかの“世界のトキメキ”の発生源となって、空間の兆しを励ます、そんな力を持っています!

存在を第三者に委ねない世界が来る。グローバル・パンデミックとの青春を機に

これからの自分や世界について、考えていることを教えていただけますか?

自己言及する、それが世界の言及になり、作品になったりする。でも、今までずっと作品というのは、だれが認証するのか?という問題と切り離せないものだったと思います。

紙幣、株式、デジタルデータ、アート作品など、仮想のものに価値を付与した状態で存在を発揮するものたちは、当然ながら、すべて人為的に設定されたシステムが下支えし、それをAーBでやりとりする場合は、その仲介に第三者や代理人が入ります。たとえば、Aが自分の紙幣をBに渡す場合、AーBだけではその交換価値を定義できませんし、第三者の認証によって初めてその潜在力が引き出されます。でも、これをあらゆるものに適用していくと不備が生じます。たとえば、AーBのやりとりそのものを実体験として有効にしようという場合、第三者の認証を介入させてしまっていれば、AーBの経験は第三者の手元で置き換えられてしまったり、そもそもないものであることを突きつけられたりします。

僕は、経験者が、一対一の関係でその記憶を認証し、存在を確定することはできないのだろうか、と考えていました。そこで、ブロックチェーンというテクノロジーを知り、次の個展では、そのブロックチェーンを使った作品を発表します。

あまりイメージがつかないのですが……ブロックチェーンは世の中にどのような影響をもたらしていくのでしょうか。

90年代からインターネットやiPhoneが普及していき、「オンライン」のインフラが整備され始めた空気感と同じように、次はブロックチェーン、「オンチェーン」がやってきています。今「オンライン」の仕組みを詳しく知らなくても、みんな完全に生活の一部として没頭していますよね。5年後とか10年後とか、ブロックチェーンの技術もそんな風に当たり前になると思います。

今のテクノロジーの空間である「オンライン」は、まさに僕たちのやりとりすべてに第三者の認証を行うプラットフォームですよね。認証されたデータは、そのアクセスにしろ、出し入れや保管にしろ、第三者に委託されたものだから、たとえば、データについて「これは、私のです」と表明することはできても、「これは、私のものです」とは言えません。そして、今やあらゆるものを、第三者の機構によって認証することで、その存在を交換可能なものとして扱うことができます。僕たちは、それになんの疑問も抱かずに、むしろ「私の」情報や「彼の」情報が大域的な広がりを持ってやりとりできる世界に恩恵を受けて過ごしてきました。でも、いよいよ「私のもの」はどこへやら?というむなしさやいつ否認されてしまうかわからない存在の危機感とともに僕たち自身がリアリティを得ることすら危うくなり、生きづらくなってきました。でも、第三者による認証で成り立ってきた世界が、もう終ろうとしているということです。

樹木とか河川とか野鳥とかって、別に人為的な第三者の構造による認証なんか要らず、地球の生態系によってふしぎと存在していますよね。ブロックチェーンが人為の認識外で自律的に駆動することで、価値を付与された仮想のものが、樹木や野鳥と同じように、「なんかある」みたいな存在になりえるかもしれないということなんです。仮想のものが持つ兆しを人為の手を離しても持続させることができれば、仮想の持続、もうそれは現実なんです。そうしたら、AーBで情報をやりとりする場合でも、その情報をいちいち第三者に認証してもらう必要がなくなる。これによって生まれてくる世界観が、とんでもないな、と僕は感じています。個展では、この世界観についてを現代アートの作品として仕上げ、具体的に示そうと思っています。抽象的な技術の話ではないということが経験的によりわかってもらえると思います。

なんだか説得力を感じます。次の個展で発表するという作品は、どういったものなのですか。

簡潔に言うと、自分の実体験に基づいて引いたコンテクストに沿って、「オンライン」から「オンチェーン」のシーン展開や支持構造の転換についてを示し、いってみれば、新しい世界の下地を思い描くような作品です。

詳しくは、個展で発表する作品群において提示されると思いますが、さわりを教えてもらえますか。

はい。高校に入ってからパンデミックの影響で生活や行事が相次いで縮滅していたんですが、文化祭をオンラインでやろうという提案がありました。オンラインの世界観が完成した0年代より後に生まれている僕たちは、自宅待機の期間からデジタルデバイスによって世界を感じることができていましたし、むしろ既存の現実よりも強度なリアリティでオンライン開催を歓迎できる準備ができていたと思います。でも、やはり、都立高校なので、先生に許可を取るわけです。それで「やってイイか」と聞くと、先生は校長に、校長は東京都に、東京都は文科省に確認…と、どこまで行っても代理人が現れて話が進まず、結局、YoutuTubeのような特設のウェブサイトで各団体のコンテンツデータを並べる感じに終始しました。

文化祭の会期が終わると、「全部削除!」と言われて、継承の道も途絶えました。オンラインでの文化祭や僕たち生徒は、所詮、公教育に認証されなければ存在しえない情報です。それに「オンライン」というプラットフォームまで導入すれば、もう公教育でさえ、マイクロソフトに認証されているみたいな状態になっていました。当然、一生徒の僕が、「僕のもの」なんて言えないわけで、失われただの、取り戻すだの、言っているけど、初めっからおまえのものなんてないぞ!という話だったことに気づき、ひどく落ち込みました。そして、これに限らず、僕たちがオンラインの中でやってきた文化的な活動のいろいろは、経験者に還元されておらず、有効ではないということに恐れました。

で、僕が提案したいのは、このような、第三者に認識されるからこそ存在できるもの(この場合では電子情報)がどれだけ危ういか、今僕たちの足元はそういうプラットフォームの上にあるという危機、そして、もしそれがプラットフォームの認識外でも存在できるなら、そういう下地が作り出されるなら、これから僕たちが電子情報のやりとりにおいて経験する記憶を文化体系として残していける世界です。僕が体験した従来の世界観での失敗を語り続け、未来へ挑戦する現代アートによって、別世界のバージョンの僕の青春を救っているかもしれません。プラットフォームという空間からドロップアウトして空間未満の兆しの追い風に当たってきた僕だからこそ、説得力を持って語れるという自負もあります。

想像を超えていて驚きました。当時から数年経つと思いますが、他に考えていることはありますか。

僕は、要介護の祖父母と一緒に暮らしていて、かなり重度のアルツハイマー型認知症や身体的な老衰と中学の頃から本格的に向き合わされてきました。祖母が、僕を孫と認識したり、どこかの清掃員と認識したり、みたいなこともあります。愛憎いろいろで、祖父母を観察していますが、思うんです。

彼、彼女の記憶というものは、どういう風に介入されて、あるいは介入されず、 どういう風に認証されて、あるいは認証されず、どういう風に保持されて、あるいは削除されるのかっていうのを、ずっと考えてるんです。それが、通底して僕の一大テーマなんです。現代アートへの取り組みもそういう誠実な態度であり続けたいと思っています。

世界が変わる瞬間を確信。もっと自分と自分との関係を考えたい

高校時代の疑問や衝撃、その後の出会いや経験を改めて振り返っていかがですか?

全てがつながっているというか、必然だったと思うことも多いですね。

2002年の映画『自殺サークル』では、新宿駅のプラットホームに女子高校生が整列して手をつないで飛び込むというシーンから始まり、「プラットホーム ここで飛べ」と、そのあと掲示板、つまりオンラインの世界観が提示され、ピクセルのような斑点が死者の数に合わせて点滅する。そして「あなたはあなたの関係者ですか」と問いかける。

また、河北秀也さんのアートディレクションで制作された1989年3月のいいちこポスターでも、新宿駅のプラットホームに多様な人が描かれているいっぽうで、彼らはみなプラットホームの帯に羅列されてしまう。固有名詞ではなく、あえて人称代名詞(所有格代名詞ぬき)が書かれているのも示唆的です。

画像提供者:三和酒類株式会社
Art Director: Hideya Kawakita illustrator: John SHELLY

これらは、それぞれの構成要素が再配置されるという独自の全面化によって陥るコミュニケーション不良の未来を暴いているという捉え方もできると思います。2020年の強制自宅待機の時期を経て、これらの作品に出会って、そういうことが直感的に、時代の体験によって読み取れていたというわけなのかもしれません。

なるほど。

だから、僕は同じように新しいコンセプトを提出したいと思います。そして、次第に構造が組み変わって、テクノロジーも実装されていき、世界がまるごと変わる。デジタルデータや二次元描画が、認証プラットフォームに支持されて、僕たちが認識することで、実体化し、今に至って、それこそフィギュア化したり、文化行事や行政にまでコラボレーションしたりすることができていますが、それ以前の人々だったら、デジタルデータを身体的なリアリティを持った人体彫刻(=フィギュア)にするという発想すら受け付けるのは難しかったでしょう。公教育の中に電子端末が導入され、チャットで授業を行い、文化祭に学生有志のウェブサイトを使用するなんてことも、2020年代の認識のもとだからできたことです。そして、これからオンラインが人々の生活を変えたような瞬間が再来すると思います。そのとき、僕の今の取り組みが、次のコンテクストへの入り口となり、歴史を織りなしていけば、うれしいです。

今までは直接話すことでコンテクストを提示されたと思いますが、今後もその予定ですか?

今までは、直接会ってなん時間も話せるような同年代に語ることが多かったんですが、それだと広がらないので(実際、自分の活動についてまだみなさんに発信しきれていない節があります)、今は、作品制作とともにだれでも自分のコンテクストがわかるようなテキストを作品として仕上げようと思っています。それも含めての成果を次の個展で発表しようと思っています。

いずれにせよ、もし、表現が今伝わらないとしても、その表現が死ぬことはありません。時限爆弾のように起爆を待機している仮死状態です。人類史の中でどんな転換が起きていたのか、そのときの象徴となるものをコレクションしたり、話題に出したりする欲望がある限り、表現も、いつか、なん年後かに新生する機会を獲得するはずです。そういう意味で、自分の表現や作品に自信を持っているんです。だから、僕はなりふり構わず、先の世界へと続く感動に集中しています。

自分と世界の未来を見ているんですね。他のアーティストと自分を比べたりすることもありませんか?

そうですね。だから、たとえば、今認められているアーティストに対しても、すごいな、と思うことはありますが、「だから自分はダメ」という思考にはなりません。アーティストは、マーケットで売れたり、権威を持った機関に巻き込まれたり、と作品の下に外部のプラットフォームがガッチャンと取り付いて、支持されないと認められない=ないも同然、と考えるかもしれません。でも、これからは、そうやって自分の経験を第三者に委ねるようなことをせずとも、作品があることのできる新しい時代が来ると確信しているので、安心しているんですよ。アート作品やデジタルデータなどの存続がいつも心配なのは、それらが、人為的な認証システムに支えられてこそ、存在できるものだからです。でも、僕たちは、本来ひとっこひとりいない深い森の中でも存在できるように、アート作品やデジタルデータも、母なる大地のようなものが支え、人に認められる必要はなくなっていくと思います。

自己言及する。それが図らずも世界への言及になる。それが、第三者ぬきで存在していく時代になる。だから、僕は、これからも自分と自分との関係を軸足にできる。そうして、初めて、わからない他者との対話も可能になると思います。

2回にわたって、表現の原点から現在の構想、未来のビジョンまで、語ってくれた中島さん。さまざまな面から「人に認証されずとも持続する兆し」の存在を言い切る彼の言葉に、不思議と勇気づけられた人は多いだろう。
複雑で、切実で、強烈に惹き込まれる説得力のある言葉は、ひたすらに自分と向き合い続けた10代の姿の向こうに歴史をも感じさせる。この先時代の認識が変わる瞬間を体験するであろう私たちが、未来で「これだったのか!」と感動する瞬間と、独自の道を進む中島さんの未来に注目したい。

前編はこちら。「あなたはあなたの関係者ですか?現代アーティスト・中島隆誠が動かされた衝撃と強烈な出会い」

個展情報

中島隆誠個展『hybrid newborns became absent kids (spring)』
日時:4月3日~14日 11:00~19:00
場所:ありかHole(東中野ポレポレ坐ビル7階)
http://polepoletimes.jp/times/arikahole/

アーティスト
中島隆誠(なかじま・りゅうせい)

2004年生まれ。2022年8月、GEISAI#21(東京ビックサイト)タカノ綾賞、同年10月初個展「Iam home (super platform)」を開催(Hidari Zingaro)、12月第3回タガワアートビエンナーレ英展準大賞。NFTアートプロジェクト進行中。2024年4月、2度目の個展を開催予定。

HP: ryuseinakajima.com
Instagram:@ryusei_nakajima
X(旧Twitter):@ryusei_nakajima

CREDIT

photo:Nanako Araie
edit&text:Hinako Masuyama

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